大阪公立大学混声合唱団
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大阪公立大学
グリークラブ の歴史
本ページに掲載されている2010年代までの団体の歴史や写真は、2011年のグリークラブ創立85周年時に発行された『南澪 大阪市立大学グリークラブ 1926 ~2011』を主な参考資料として作成しております。
内容の正確性には十分配慮していますが、編集の都合上、一部表現や構成を変更している場合がございます。
設立
グリークラブの歴史は、1926年(大正15年)春の大阪市立高等商業学校グリークラブ結成時に始まる。
創設者の郭再強は、当時日本の一地方であった台湾から笈を負って大阪に学ぶ青年であった。
「大阪高商グリークラブは、恥しいながら、私が大正15年の春(多分5月頃)に組織した。入学早々グリークラブを探しもとめたが見つからない。講堂で時々バイオリンやセロを弾く方があるので、その方に聞いてみたら、そんなものは全然ないよと言う。私は洗足寮の寮友や学校YMCAの会員及び同クラスの懇意な方々と相談し、その御同意と御声援を得たので愈々グリークラブを組織するべく、大胆に部員募集の貼紙をした。ところが驚くなかれ、集まったのはなんと百人に近いではないか。併し私は決して喜ばなかった。というのはひやかし半分の者が大多数を占めているだろうと思ったからである。
初めは講堂(烏ヶ丘の古ぼけた講堂)で簡単な式を挙げ、次は大講堂に於て正規的な訓練として楽典と発声法を指導した。退屈をさける為、時々間に輪唱を挿入した。本当にイロハからという有様である。ところが約半月後に上級生の部員から、そんな堅苦しいものはやめて早くラブソングの一つや二つでも教えてくれ!とどなられた。それでも私は耳をかさずに、規定方針に従って基礎訓練を継続した。それで、あれからは一人逃げ、二人逃げて終いには約20人くらいしか残らなかった。この20人の中でも出欠常ならざるものが数人おり、結局熱心に毎日集まったのは十数名のみであった。私は第一段階の目標たる、ダブル叉はトリプルカルテットのメンバーさえ残ればよいと思い寧ろ喜んだ。これは将来根幹となるべきメンバーであると思い、私は心ひそかに喜びつつ精魂を打ち込んだ」(郭再強 氏)
15年というと大正の最後の年であるから、すぐに元号は昭和に変わったが、設立した年から関西コーラスコンクールには出場していたようである(現在のコンクールの前身ではない)。翌年の昭和2年には宝塚第一次関西コーラス・コンクールに「OCCクラブ」の名称で出場。落選したが、翌年昭和3年の第二次関西コーラス・コンクールでは「ミヌール男声合唱団」の名称で出場し、見事2位入選して銀盃を持ち帰った。
昭和4年夏、土佐堀YMCAにてマンドリンクラブの賛助出演を得た発表会を開き、大盛況のうちに終わる。この発表会を大阪高商グリークラブとしての第1回発表会と表現しても差し支えないだろう。
第1回発表会の曲目はドイツ歌曲や宗教曲が多かったようだが、その後は徐々にリズミカルなものへ移り変わっていったことがうかがわれる。
この頃は大阪音楽学校の教授に教えを乞うなど、技術面の見直しの時期であったと共に、一応の基礎を固めて反省期を迎えるなど、ある種の転換の時期だったようである。
昭和8.9年頃には杉本町の当時の全校舎が完成し、大学の成長と共に歩みを進めていた。
黄金時代
当時は朝日会館で開催される明治節合唱音楽会というものが、コンクールではないが、合唱界では一番重視されていたようである。招待制の演奏会であったが、神戸の関学と大阪の商大は常に絶賛の的であった。この頃に結成された関西学生合唱連盟の秋の音楽会でも中心を担っていた。
華やかな一面、練習もそれに比例して相当に激しく、気力溢れるものであった。当時の団員数は30名程度であったが、練習の集まりが悪いとマネージャーが杉本門の出口で部員を有無を言わせず引き留めていたようである。とはいっても、基本的には非常に明朗なサークルであった。
戦時中
昭和12.3年あたりになると国内の情勢が厳しくなり、音楽などに対する風当たりも次第に強くなっていった。更には太平洋戦争への突入、激化と共に、商大グリーも縮小をやむなくされ、一時は卒業生0人という状況にまで追い込まれた。
「その当時は、グリーで歌っている奴は軟派学生の代表のように思われた時代で、その後の軍国主義の前兆がしのびよっていました」(西尾善之祐 氏)
愛唱歌集にも含まれており、今尚歌い継がれている「学園(まなびや)」が完成し、ガスビルホールにて初演したのはこの頃(昭和14年)である。
終戦後
一時戦雲の彼方に没し去ってしまったかのように思われたグリークラブは昭和20年8月15日に終戦を迎えるや否や直ちに再建にとりかかり、その活動は当初からエネルギッシュなものであった。
再建されたグリークラブの団員は15.6人程度で、終戦の年の冬頃には発表会を開いていたようであり、戦後の食糧難のうえに、満足でない練習場にも拘らず、他の合唱団と比べると比較的立ち直りが早かったようである。
「破れガラスの校舎(道仁小学校)で、ピアノもなく、華やかなステージも持たず、只、音叉だけが頼りでした。しかし本当に好きな連中ばかりと見えて、不平も言わずよく頑張り、22年、23年と両年、合唱コンクールでは2位であったと思います」(多田得郎 氏)

第1回関西合唱コンクールの表彰状(1946年)
学制改革
昭和24年4月、学制改革により商大と同予科・同高等商業部・市立都島工業専門学校・市立女子専門学校などを合併吸収し、総合大学である「大阪市立大学」が開設される。
これに伴い、看板も「大阪市立大学グリークラブ」へと看板を塗り替えた。
当時の旧商大は米軍の接収により学舎群が基地や病院として使用されており、仮校舎が市内に四散していたことから「タコ足大学」などという名前を頂戴していたもので、当然ながら練習場所の確保には難儀し、商大生と市大生の間で要らぬ摩擦も起こり、練習に集まるのは数十名という具合で、この頃のグリークラブは壊滅状態に陥っていた。
しかし、いつまでも低迷しているままのグリークラブではなく、そこには必然的、積極的に再建に乗り出し、今迄以上の発展を目指す人々か次々と現れてきた。
「この時代の苦悶の中から、今日の基礎を築くに与って力のあった人を特に挙げねばなりません。当時の部長故玉木弘一氏と指揮者吉川恵之助氏こそその人です。分裂し崩壊し再建の荊の道を乗り越え、グリークラブの今日あるところに多大の寄与をされた二人の功績は如何に高く評価されてもされ過ぎることはない。」(細川光雄 氏)
これ以降恒例となる夏の信州旅行が始まったのはこの時期である。
「グリーに入って信州へ行こう」はグリー勧誘のお決まりの標語であった。(当時流行っていた「トリスを飲んでハワイへ行こう」というテレビCMをもじったものであろうか)勧誘での効果は抜群であったようである。
第1回定期演奏会
1951年(昭和26)年12月15日、大阪女学院講堂で行われた「大阪市立大学音楽協議会第1回招待演奏会」をもって、市大グリー第1回定期演奏会とする。グリークラブとオーケストラ両部の合同演奏会であり、グリークラブは吉川恵之助氏の指揮のもと「ドイツミサ」「月光とピエロ」などを披露した。
「本日の演奏における両部員の知性と情熱は必ずや本学の輝かしき未来を拓きその栄光を担うものであると確信しております。」

第1回定期演奏会パンフレット(1951年)
三商大交歓音楽会
1952年(昭和27年)には最初の三商大交歓音楽会を大阪のガスビルホールで開催。一橋大はピアノ参加であったため、「第ゼロ回」と表現した方がよいだろうか。市大はロシア民謡、日本童謡、黒人霊歌など、神戸大は清水脩「月光とピエロ」、一橋大はコール・メルクールではなく、「音楽部」としての参加で、森一氏のピアノ、伴奏は大阪市立大管弦楽団。曲目はラヴェル「死せる王女のためのパヴァーヌ」、ロッシーニの歌劇「アルジェリアのイタリア人」、ベートーベン「ピアノ協奏曲第3番」の第1楽章などを披露した。
「斯く密接な関係にある三商大の共に音楽を愛好する若人が一堂に会して交歓し得ることは誠に恩義の深い事と存じます。そして本日の三商大交歓音楽会に於ける私たちの団結は更に我が国の輝かしき未来を拓き、その栄光を担うものであると確信致します」(パンフレット挨拶より)

旧三商大第0回ポスター(1952年)
1955(昭和30)年に大阪の産経会館で開催された三商大交歓音楽会が「第1回」と定義される。
市大は長崎良太郎指揮の「ギリシャ正教聖歌」「黒人霊歌」、神戸大は天野明弘指揮の清水脩「三つの俗歌」「グリーグ作品集」、一橋大は石丸泰郎指揮の「兵士の合唱など」「ああ楽しきはこの時」など。
この年には米軍に接収されていた杉本町学舎の全面返還が実現し、大阪市立医科大学が統合され医学部になっている。遂に「タコ足」状態から解消され、落ち着いた活動が可能となり、その成果は翌年以降の労音合唱祭・関西春季大合唱祭・京阪神三大学合唱音楽会・三商大交歓音楽会・信州合宿演奏旅行・関西合唱コンクールなどといった多彩な活動へ繋がっていく。
旧ソ連との国交回復や国際連盟加盟の実現など戦後の復興が進み、国民生活の向上が急速に進むのと足を揃えて、グリークラブも安定期へと歩みを進めていくこととなる。
安定期
高度経済成長期に入り、市大グリーの活動は安定していく。東京オリンピックの翌年、1965年の第15回定期演奏会は「創立40周年を迎えて」と銘打って開催している。
この時代において触れておきたいのは四大学交歓演奏会であろう。市大・阪大・府大・外大の四大学の交歓演奏会がスタートしたのは1962年であり、以後、1985年まで計19回のコンサートが開かれた。旧三商大交歓演奏会が中断している間は前期の重要な行事であったが、復活してからは徐々に注ぐエネルギーも薄れていったように思われる。過去のパンフレットを見返しても、スケジュールや運営方針などの面で様々な問題を抱えながらも交流を重ねてきた様子がうかがえる。
今や有名無実化したが、昭和41年秋に定められた大阪四大学合唱連合規約では「四大学は互いにその交流を深め、互いの合唱レベル向上を図り、ひいては大阪府の合唱レベルの向上に寄与す」という目標が設定され、一定の役割を担っていたものと推察される。
昭和41年12月の第16回定期演奏会から詰襟やワイシャツと蝶ネクタイというスタイルではなく、薄いクリーム色のブレザーを着用するようになる。
OBの記述では「白ブレザーのやつ」「白い悪魔」などとあり、新歓期に大人数で押し寄せるグリーの勧誘は相当印象的だったようである。

創部40周年記念総会(1965年)
大学紛争
1969年、学生による東京大学のバリケード封鎖に対して当局から要請された8,000人の機動隊は、全共闘派学生の立てこもる安田講堂を包囲して、攻防戦が行われた。
この年は紛争の影響が色濃く出た時期と言える。3月の合宿、大阪四大学交歓演奏会、旧三商大交歓演奏会も中止になり、信州での夏合宿は実現したが、定期演奏会は中止を決め、「演奏会’69」として開催した。
「演奏会のない寂しさは、グリーメンの個々にとって隠せないものでした」
「何とか発表の場が持ちたいと、誰からともなく言い出し、さまざま紆余曲折を経て、ようやく、この"演奏会’69"までこぎ着けたわけです」(パンフレットより)
学生運動が一種のブームというような時代であったから、団員の中にも学生運動にかかわりのある人間はいたが、「イデオロギーは部に持ち込まない」という不文律はあったようである。
部員減
1970年に入ると69年には中止した行事も復活し、第20回定期演奏会も開催された。
この頃のグリークラブは活動の転機に差し掛かる。第22回のパンフレットにはこう問題提起されていおり、グリーの在り方について部員たちが論議を重ねた様子がうかがえる。
「現在男声合唱サークルは一つの転機にあると思います。部員数の減少、選曲の変化などにその傾向が示されていると思います。この転機は衰退によるものである事は残念なことです。しかし、この衰退の原因は確かめる必要があります」
「まず言えることは、合唱の原点に戻ることです。本島に歌って楽しいのかどうか再確認する必要があるでしょう。(中略)歌に人の心を打つものがあるかどうかが問題です」
1973年には市大グリーにとって大きな変化が起きた。旧三商大交歓演奏会の中止である。当時の部員数は18名であり、この陣容で春に大阪四大学と旧三商大の二つの演奏会をこなすことの負担の大きさから、離脱を決意したという。(当時は二つの演奏会では異なる曲目を扱うという不文律があったようである)
1975年は市大グリーの創部50周年に当たる記念イヤーであり、9月14日には市大で記念祝賀会を盛大に開催した。定期演奏会にも意気込みがうかがえる。

創立50周年記念式典(1975年)
復活
1980年は市大の創立100周年、グリー創部55周年、定期演奏会は第30回という記念の年であった。
「部員数を50名にのせることができました。これを機に、新たな出発へ部員一同決意を新たにしております」(第30回定期演奏会パンフレットより 倉田友英 氏)
「私たちグリークラブは、大学紛争以来の苦難の時代をのりこえ、着々と部員を増やし続け、本年度は念願としていた60名に達することができました」(第31回定期演奏会パンフレットより 宮崎靖 氏)
1982年には旧三商大交歓演奏会が復活する。復活のコンサートのパンフレットによれば、1972年の第18回演奏会を最後に中止となった後、学園紛争などの影響が比較的少なかった神大と一橋大のジョイントコンサートという形で演奏会は続いていたようである。
1983(昭和58)年の第33回定期演奏会から会場は真新しいシンフォニーホールに移る。
ここから1994(平成6)年の第44回までシンフォニーホールを使うことになる
1986年には梅花女子大、樟蔭女子大と創部以来初のジョイントコンサートを実施。1988年は神戸女子薬科大、奈良女子大とジョイントコンサートが開かれた。

シンフォニーホールでの第33回定期演奏会
(1983年)
再び部員減
1990年代に入ると、再び部員数が減少に転じる。増加基調は1989年の78人で止まり、1990年は64人に急減。1991年57人、1992年は60人に盛り返すが、1993年は50人、1994年48人と減少傾向に歯止めがかからなくなる。
2000年~2010年代のグリー
2000年には部員が8人となる。この年は記念すべき第50回定期演奏会を吹田メインシアターで開催。最終ステージではアドバイザーの岩城恵一氏が多田武彦の「富士山」を指揮。多数のOBも参加して盛り上げた。
2001年6月27日には第38回旧三商大交歓演奏会を吹田メインシアターで開催し、一時中断となる。
2002年には長年の活動拠点であったボックス(旧チャペル)の取り壊しが決定。
2004年7月には中断していた旧三商大交歓演奏会を神戸文化ホールで再開。合同演奏では斉田好男氏の指揮で鈴木憲夫作曲「永訣の朝」を演奏した。
2005年7月には第40回旧三商大交歓演奏会を国立市の一橋大兼松講堂で開催。合同演奏では委嘱作品である鈴木輝明作曲「無伴奏男声合唱のための『銀幕哀吟』」を演奏。この第40回をもって旧三商大交歓演奏会は中断し、今日に至る。
2010年11月14日、南澪会合唱団の設立70周年記念演奏会が大阪市天王寺区の大阪国際交流センター大ホールで開かれた。南澪会合唱団は1940年、大阪商科大学グリークラブとそのOBによって設立され、南澪会はグリークラブのOB会でもある。
この年は市大グリーも85周年の年であり、現役グリークラブ、幅広いOB,東京南澪会合唱団も加えた総勢120人がステージに乗り、加藤正文氏の指揮で「月光とピエロ」を演奏した。

南澪会合唱団設立70周年記念演奏会
(2010年)
2020年代のグリー
2020年には部員数が3名になっており、1月の第67回定期演奏会終了直後には新型コロナウイルスの蔓延が本格化し、対面活動の制限を余儀なくされる。
2021年3月には4回生が卒業したことで唯一残った現役部員から退部の申し入れがあり、部員0名という危機的状況に陥る。南澪会のOBらが直接動き、当時の合唱団フリーデ、市立大混声にグリークラブ存続への協力を要請した。翌月にはこれらの合唱団部員の一部が兼部団員となることでグリークラブの存続が決定した。
同年11月にはグリークラブ創立95周年を迎え、OBの集いには現役グリークラブ団員も参加した。
しかしながら、この年以降はグリークラブのみに所属している団員はおらず、全員が学内の他の合唱団に主に籍を置く兼部団員であったため、定期演奏会は開催されず、結果的にはコロナ禍直前の第67回がグリークラブにとっての最後の定期演奏会となった。
大学統合
2022年4月、大阪市立大学と大阪府立大学が統合し、「大阪公立大学」が開学する。これに伴い、団体名も「大阪公立大学グリークラブ」へ変わった。
同年11月には南澪会合唱団定期演奏会が南澪会創立80周年と銘打って開催され、現役グリークラブが単独ステージで演奏を披露した。
2023年4月には団体名を「大阪公立大学グリークラブみおつくし」に変更。この頃には学内のみならず、大阪府合唱連盟大学部会所属の大学生が所属するインカレサークルのような活動形態になっており、主に大阪府合唱祭や混声合唱フェスティバル、がっつり。などでのワンステージ演奏が中心になっていた。また、この頃には女性団員もマネージャーではなく歌い手として所属しており、元気に男声合唱に参加していた。
この頃にはコロナ禍もひとまず収まったようで、学内にもようやく賑わいが戻ってきた時期であった。
団体統合
コロナ禍以降、新歓などは行っていなかったようである。基本的には合唱団フリーデやいちこんの団員にワンステージ演奏へのオンステを呼びかけ、その参加をもって団員とする形をとっていた。
様々活動形態を変えながら歩みを進めてきたが、主に運営を担ってきた学生らの卒業や上回生化に伴って長期的な持続可能性への問題提起がなされるようになる。当時、インカレ生を合わせるとアクティブな団員は30名弱ほどいたが、公立大所属のグリークラブ団員は片手で数えるほどしかおらず、全員が翌年には卒業、若しくは3回生になり本籍を置く合唱団での運営を担うという見込みであった。
また、この頃には翌年秋からの新キャンパス開学に伴う学生の分断や、公立大の合唱団全体の団員数減が不安視されたことによる合唱団再編の動きがあった。最終的には公立大の合唱団まとまっての統合は見送られたが、グリークラブはこのままいくと2年後には再び団員数0名になる状況であり、運営を行う余裕のある団員もいなかったことから、2024年10月、当時の部長が長らくグリークラブと部室を共有し、比較的距離の近かった合唱団フリーデへ直接統合を申し入れ、受け入れられた。
その後、2団体及びOB会との協議を経て、2025年2月にグリークラブと合唱団フリーデは統合し、「大阪公立大学混声合唱団」として新たに歩みを進め始めた。
2025年12月21日、大阪公立大学混声合唱団第1回定期演奏会が阿倍野区民センター小ホールにて開催。舞台上には混声合唱団、グリークラブ、フリーデの三団体の団旗が掲げられた。
大阪公立大学グリークラブになってからは一度も定期演奏会を行っていなっかったことから、大学統合4年目にして初めて公立大グリーの団旗がお披露目されたこととなった。
現在、大阪公立大学混声合唱団は団員数30~40名程度で森之宮、杉本を拠点に活動しており、南澪会との関わりも続いている。

大阪公立大学混声合唱団
第1回定期演奏会
(2025年)

